『秩序の中の平和』
聖書箇所:コリント人への手紙14章26〜33a節
中心聖句:『神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。』(コリント人への手紙11章36節)
2024年8月25日(日) 主日礼拝説教要旨
Tコリント14章も終わりに近づき、実際の礼拝の中で各々がどのようにふるまうべきであるか、その結論をパウロは述べようとしています。パウロは、「礼拝の中の全ての行動が、秩序に従って行われるように」と、コリント教会の一人びとりに厳かに命じました。礼拝という行為は、参加する人間の為ではなく神様の為に捧げられるものです。各々の思惑の為ではなく、神様の喜ばれる秩序の為に、礼拝の平和が保たれることこそが重要なのであります。
私たちは、それぞれ賜物を与えられ、割り振られた任務を遂行できるようにされています。それは、他でもない天地を創造された父なる神様ご自身の手によることです。それでだけなく父なる神様は、聖霊の働きを通して、私たちの行うことに統一性を持たせているのです。だから私たちが、聖霊に従って物事に取り組んでいる限り、その働きが混乱に陥るということは、理論的にあり得ないのです。手足が別々の意志をもって動くために歩くこともままならない。そんな人など、一体どこに存在するでしょうか。教会は、統一された動きを行い、天の父なる神様と、頭であるイエス様の為に成長します。それを成し遂げる為に、聖霊が存在するのです。
礼拝という儀式一つにおいても、それらは聖霊によって順序が定められ、説教者に何を語らせるかも聖霊の意志で一つのことが定められます。だからこそ、聖霊によって指名された一人びとりが、秩序に従って順番に発言するのです。礼拝の中で奉仕をする人が予め任命されているもその為です。司会者に呼ばれてから、奉仕を行う人は仕事を始め、牧師もその人の仕事が終わるまで説教するのを待ちます。定められた者以外は、礼拝中発言することも許されません。これは全て、聖霊の定めた秩序に従うが故です。私たちは、これを弁えねばなりません。
しかし、私たちは罪のある人間ですから、どうしても集団の中で自身の価値を示さずにはいられません。承認欲求の故に、「唯一の存在」となりたいからです。特に、主日礼拝はクリスチャン達の集まりの中では最も重要な催しごとですから、その場で「特別な奉仕をしたい」、「目立ちたい」、「貢献したい」、「周囲に自分が教会で最も重要な人物だと思われたい」と考える人が出てきてしまうことは避けられません。しかし、それぞれが既に任命された奉仕者を押しのけて、「私はもっと上手に賛美ができる」「私はもっと上手く教えることが出来る」「私は更に凄い啓示を告げることが出来る」「私はもっと異言を話せる、解ける」と主張するようになれば、礼拝はどうなるでしょうか。秩序だった平和な礼拝の実現など、到底出来ないのではないでしょうか。結局は、賜物が預言であろうが異言であろうが関係ないのです。聖霊の定める秩序に逆らって礼拝を混乱させる原因になるなら、どの賜物にも価値がないからです。礼拝は、父なる神様を称える為に頭であるキリストの死を記念し、聖霊に導かれながら行われるべきものですし、この三者は全て、秩序を定めた三位一体の神の御一角です。だからこそ、本当に神様の為に礼拝を捧げたいと望むのであるならば、秩序を愛し、混乱を憎むというのは、当然の態度なのではないでしょうか。だと言うのに私たちは、神様の御心や、イエス様の身体の意味、聖霊の手の業の趣旨などについて一切考えも弁えもせず、「自分こそが注目されるべき尊い存在である」と主張して礼拝を妨げてしまうのです。ここに人間の罪があります。
私たちの賜物も、奉仕も、存在すらも、神様の定められた秩序の中に置かれ、各々活躍すべき場が定められています。だからこそ、神様の秩序を尊んで従う時に、私たちが最高に輝ける場が与えられるのです。神様は既に、私たちの最高の舞台を用意してくださっています。ですから安心して聖霊の導きに従い、忠実に自らの仕事に取り組んで神様にお仕えしましょう。
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