『教会の法』
聖書箇所:コリント人への手紙14章33b〜40節
中心聖句:『ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。』(コリント人への手紙14章40節)
2024年9月8日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
14章も終わりになりました。パウロは、これまでの問題の中心となり、礼拝と聖礼典を妨害し続けてきた、自称「霊の人」、自称「預言者」、「女の人」に対して裁定を下します。それは、「命令に従わないならば教会から追放されるべき」という宣告でありました。38節の「無視される」とは、神様から無視されるという意味です。つまり、「彼らは最早クリスチャンですらありえない」と断罪する、厳しい言葉なのでした。またパウロは、コリント教会の信徒たちに対しても、これまで手紙の中で取り扱ってきた全ての問題に通じる最終的な命令を下します。それは、「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」という命令です。この命令こそが、神に召された聖徒の集まりである教会が果たさなければならない責務なのでした。
一見、今日開いた箇所の前半部分は、まるで女性が軽んじられているかのような内容が見受けられますが、実際にはそうではありません。社会通念に反した形で集会に参加し、かつ礼拝を妨害する一部の女性グループに、それをやめるよう警告しているだけです。当時は、時代背景的に女性教育の普及が進んでおらず、女性が討論に参加出来るだけの下地が整っていませんでした。それ故に、トラブル回避の為に公の場で女性が討論に参加することは恥ずべきことであると考えるのが一般的だったのです。「教会外ですら忌避されることが、何故教会内で平気で行われ、しかも神の前での公的な礼拝が妨害されているのか」とパウロは非難したのです。教会の内外で文化や考え方の差は確かに存在しますが、公序良俗に反する行為が忌避されるのは時代や場所を問わずどこでも同じことです。聖書の御言葉に反するようなことでもない限り、私たちは誰が見ても「麗しく」かつ「適切な手順」で礼拝を守らなければなりません。
では、礼拝における「麗しさ」や「適切な手順」とは一体何なのでしょうか。それは各時代ごと、また各国の文化によって正解が変わります。パウロの時代のギリシャ教会では、女性が帽子をかぶり、礼拝では黙っていることが「適切である」と判断されましたが、現代日本ではそうではありません。少なくとも一般的なプロテスタント教会では、男女問わず、帽子を被ったまま説教を聞き、礼拝中に発言することは許されません。このように、「適切な礼拝の形」は、時代や状況によって変わるものであります。しかし、だからと言って好き放題にして良い訳でもありません。何故なら礼拝の適切さは、「聖霊の主導」により、「聖書の御言葉」に従って、「集まる聖徒たちが神様への真心を愛によって示す形」で、探り出されるものだからです。御言葉によって、神様の御心を推し量り、各々が聖霊の主導によって、神様への真心を注ぎだして、何が適切か議論されます。これが正しく行われるときに、誰もが「アーメン」と喜んで従うことの出来る麗しい、かつ適切な教会の法が作り上げられていくのです。しかし、そのような霊の一致によって導き出された結論を無視し、様々なイデオロギーや自分勝手な考えによって、教会の秩序へ挑戦しようとする人々は、何時の時代にも必ず現れます。ここに人間の罪があるのです。そのような人々が、神様からも無視される存在となるのです。
それぞれの教会が、自分たちの礼拝の正しい手順を考えて話し合い、追求します。これが、神に召された聖徒の集まりが担う責務そのものなのです。だからパウロも、それぞれの教会が、各々「適切な手順」を追い求めるように命令を下したのです。今、私たちの名古屋教会も、大切にしている礼拝の「手順」や「適切さ」を各々が今一度良く考え、一致し、これを固く守り続けなければなりません。自分の思いや考えではなく、聖霊によって、御言葉と御心に各々真心をもって応答できる。そのような名古屋教会であり続けようではありませんか。
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