『何を信じたのか』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章1〜11節
中心聖句:『とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。』(Tコリント人への手紙15章11節)
2024年9月29日(日) 主日礼拝説教要旨
15章から、手紙は新しい話題へ移ります。それは「死人の復活などない」などと言う人がコリント教会に存在することについてでした。福音を聞いて信じ、救われたはずのクリスチャンから、死人の復活などないと言う発言が聞こえてくるのは不思議なことです。しかしパウロは、実際にコリント教会にそのような人が少なからず居るのを見て、その原因が「福音を信じたにも関わらず、内容を理解していない」部分にあると考えました。私たちは、自分が何を信じたのかについて良く理解している必要があります。自分が何を信じたのか理解しないまま信仰生活を続けるなら、最後には信じた事実そのものすらも無駄になってしまうからです。
3節から、パウロはコリント教会の人々に対して、「福音」と呼ばれるものがどのような報せであるのかを再度述べました。その内容の一つ目は、「キリストが死なれたこと」です。イエス様が、私たちの為に死んでくだったことは、信じて救われた人にとって一番大切な事柄です。これに付け加えてパウロは、キリストが死なれたのは「私たちの罪のため」であると教えました。何故ならイエス様は、私たちが受けるはずであった罪の罰の身代わりとなって死なれたからです。イエス様が死なれたことは、「葬られたこと」によって確認することができます。何故なら、他でもないローマ帝国自身が、イエス様を十字架にかけて処刑した後、確実にその身体が死んでいることを確認してから、遺体を葬ろうとする人々に引き渡したからです。このキリストの死は、旧約聖書の中で確かに予告されていたことでした(イザヤ53章他)。
福音の内容の二つ目は、「キリストが三日目によみがえられたこと」です。これは単なる蘇生ではなく、死から完全に復活され、現代になっても尚、生き続けておられるという宣言です。この復活は、よみがえったイエス様が、ケファ(ペテロ)を始めとして、十二弟子や主の兄弟ヤコブ、500人以上の人々、そしてパウロ自身の前に現れたことで証明されています。この復活もまた、旧約聖書で予告されていたことでした(列王記20章5節、ホセア書6章2節)。
では、「この二つの事を確かに聞いて信じているならば、「死人の復活などない」という言葉は出ないはずだ」と、パウロは考えたのは何故でしょうか。それは、福音を信じた私たちが復活できるようになる為、イエス様が十字架の上で、私たちの罪の罰の身代わりとなって死んで下さったからです。また、イエス様は、復活の約束が保証されていることを証明する為に、復活した人間の初穂としての御自分の身体を見せて下さいました。このように、イエス様が死んで復活したからこそ、福音の約束には希望があるのです。私たちがこれを聞いて、理解し、信じ、受け入れているのならば、「もしかしたら復活は無いかもしれない」と不安を抱く必要も無いはずです。このように、自分が何を信じたのかを良く確かめ、その意味を理解して福音の約束を握り続けていることは、私たちにとってとても重要なことなのです。しかし、私たちは自己中心であるので、救われた事実を知っただけで満足し、自身がどのような恵みを受けたのかについて興味を持とうとせず、自身が何を信じているのかも理解しないまま迷走して、生き方の定まらない漠然した人生を過ごしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。
私たちは、自分が何を信じ、何を握って信仰生活を送っているのか、端的かつ明確に他の人へ証することができるでしょうか。私たちは福音の約束を握り続ける為にも、感情だけでなく、理性によっても信じ、確信をもって救われていなければならないのです。だから教理についても良く学び、自身が何を信じたのかよく理解して、救いの人生を歩んでいきましょう。
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