『神の恵みの表れ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章9〜11節
中心聖句:『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。』(Tコリント人への手紙15章10節)
2024年10月6日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
キリストが死んだ後、三日目に復活されたことを、パウロは福音の教理として理解させる為に、再度コリント信徒たちに語りました。パウロはその中で、自分自身もまた、復活したイエス様の目撃者であることを証します。パウロがダマスコへ向かう途上で復活したイエス様に出会い、悔い改めて使徒となった話は有名です(使徒の働き9章)。「その時に受けた恵みこそが、今の自分を形作っているのだ」と振り返るパウロの態度から、私たちも日々受ける恵みをどのように受け取るべきであるかについて、多く学ぶことができるのではないでしょうか。
パウロは全ての使徒の中でも、その任命のされ方について大変異例な人でありました。もともとサウルと呼ばれていたパウロは、熱心なユダヤ教徒で、ステパノの迫害と殺害に加担し、新しく出現した教会に反対して、自らも迫害し荒らしまわる反キリストの代表者でありました(使徒の働き8章1-3節)。そんな彼が、ダマスコのキリスト教会を取り締まる為に向かっている途中、復活したイエス様に遭遇し、人生が180度転換して変えられたのです。それ以降、ローマ帝国によって処刑されるまで、パウロは使徒として誰よりも熱心に働き、その生涯をイエス様の為に捧げたのでした。しかし、誰より熱心に働いたにも関わらず、またそれを自分で認めていたにも関わらず、パウロはそれを誇ることをしませんでした。自分が教会の迫害者であったことをいつまでも忘れていなかったからです。パウロは自身を誇るどころか、「使徒の中では月足らずの者」、「最も小さい者である」と告白し、「そもそも使徒と呼ばれるに値しない者である」と述べて、どんな手柄があろうが、自分には何の価値もないと言い切ったのです。
パウロは、「それでもあえて、誇れる部分があるならば、それは私を今の姿に変えて下さった神の恵みの御業に他なりません」と、コリント信徒たちに証しました。教会の迫害者であり、キリストの敵対者であった自分自身が、誰より忠実に働くキリストのしもべに変えられている今の姿そのものが、妙なる神様の恵みの表れなのであると考えたからです。だから、今更何か特別に良いことが起こらなくても、パウロは気にすることがありませんでした。たとえ降りかかる出来事が災難ばかりで、何一つ報われずとも、パウロは自分が今、『サウロ』ではなく『パウロ』とされていることそのものに、神様の大きな恵みを感じて感謝していたのです。だからこそ、彼はいつも喜んで献身し、人々に神様の恵みを証し続けられたのでした。
自分の人生を振り返った上で、「昔に戻って人生をやり直しても、今の自分の状態に必ず戻って来られる」と断言できるクリスチャンがどのぐらいいるでしょうか。私たちが、イエス様と出会い、救われ、今この教会の中で立っていることは、決して当たり前のことではありません。しかし、私たちは自己中心的な性質を持っていますから、信仰生活の中で起こる災難にばかり目を向けて記憶し、良いことが起こっても感謝しないどころか気づきもせず、すぐに忘れ、「何かいいことが起こらないか」と期待します。そして、何も起こらなければ勝手に失望して「神の恵みなど何もない」とついつい口にしてしまうのです。ここに人間の罪があります。
たとえ期待したような良いことが起こらなくとも、自分に都合良く物事が運ばずとも、今立っている私たちの姿そのものが、人間の手では決して実現できない神様の御業の表れなのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました。」とパウロが言っている通りです。私たちは、この世に生まれた時だけでなく、今までの人生の道筋までも全て含めて、神様の作品なのです。私たちは、自身を形づくっている神様の恵みに対して、どのぐらい真剣に目を向けているでしょうか。神様から受けた恵みに感謝して、これが無駄にならないように励みましょう。
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