『耳に聞こえる福音』
聖書箇所:ローマ人への手紙10章8〜17節
中心聖句:『ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。』(ローマ人への手紙10章17節) 2024年10月20日(日) 主日伝道礼拝説教要旨
本日も伝道礼拝が行われ、毎月の第三週の主日には、キリストの福音が一人びとりに対してはっきり宣べ伝えられています。教会で宣べ伝えられる福音の報せには力があり、私たちを永遠の命に至らせる全ての奥義が秘められています。その内容も決して難しくはありません。「私たちの罪の罰の身代わりとなって十字架の上で死なれ、この父なる神様の御手によって復活されたイエス様を信じて、『イエスは主である』と告白するなら、全ての罪は赦され、永遠のいのちと、新しいからだ、神の子として身分が与えられる」と、内容はただこれだけだからです。しかし、私たちはこの福音の言葉に無関心で、無碍にこれを聞き流しているように思います。この福音の報せに対してどれほど大きな対価が支払われているか、この報せが耳に届く為に、どれほど多くの神様の手が尽くされているか、私たちは知っているでしょうか。
福音の言葉は、いつも私たちのすぐ近くに転がっています。現代では、それを聞く為の多くのツールも用意されています。本屋に出向けば聖書は数千円で購入できますし、スマートフォンを使って無料で聖書が読めるアプリケーションを導入することも出来ます。聖書を無料で配布するギデオン協会のような組織も存在します。私たちが福音を聞くために必要な対価は、ほぼゼロと言っても過言ではありません。しかも、これは宣教の始まった2000年前から何も変わっていないのです。何故でしょうか。福音に価値がないので、対価が必要ないでしょうか。
決してそうではありません。福音を聞く為の対価が必要ないことは事実ですが、福音の出来事と約束が成就する為には、実に莫大な対価が支払われています。私たちが救われる為に福音を成就させる。その為に支払われた対価は、三位一体の神の御一角であり、父なる神様の大切な独り子である、子なる神の全てでありました。子なる神は、神としての地位と力を、私たちが犯した故に受ける罪の罰の身代わりとなる、ただそれだけの為に捨てられました。その上で、ただの人間としてこの世に生まれてイエス様となり、十字架の上で私たちの為に死んで下さったのです。無限なる神様の三分の一が、一体何と釣り合うでしょうか。それほど大きな対価が、他でもない私たちの為に喜んで支払われたことを、私たちは知っているでしょうか。
福音が私たちの耳に届き、それを信じるかどうかの選択を行う機会が与えられていることも、決して当たり前のことと思ってはなりません。福音を聞いた時に、それを受け入れる為の心の準備が出来ている人は稀だからです。様々な状況を経て、公正に福音の言葉を聞いて吟味し、信じるか否かの決断が出来る心の準備が出来ている。そんな時に福音の言葉を丁度聞ける人など、果たしているでしょうか。しかし、実際に神様は、そのようなタイミングで私たちに福音を聞かせてくださいます。神様が、私たちの生まれる前から計画を立ててください、ここぞという時に福音が聞けるようにと、手を尽くしてくださるからです。何故そこまでして下さるのでしょうか。それは、神様が私たちの事を一方的に愛して、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」という御言葉を成就させたいと願って下さるからです。しかし、私たちは福音の成就の為に支払われた尊い対価にも、それを聞かせる為に尽くされた御手の業にも興味を抱かず、無関心にこれを聞き流し、退けてしまいます。ここに人間の罪があるのです。
私たちは福音の言葉が、ただ退屈な御題目や、聞き飽きた決まり文句であると勘違いしていないでしょうか。教会で福音の報せが毎月聞こえてくるのも、当たり前のことだと勘違いしていないでしょうか。私たちの耳に聞こえる福音は、この上ない、父なる神様とイエス様からの贈り物です。それを心に覚え、今こそ福音を聞くところから始めてみようではありませんか。
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