『空の手を見る』
聖書箇所:ルカの福音書11章1〜4節
中心聖句:『そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。』(ルカの福音書11章2節)
2023年5月21日(日)主日伝道礼拝説教完全原稿
※詳しい聖書の解説を、ホームページに掲載しています。どうぞご覧ください。
本日は、伝道礼拝です。家族や友人に誘われて教会にこられた方の中には、初めて「主の祈り」を聞く方もいるのではないでしょうか。この「主の祈り」は、教会の中で最も大切にされている祈祷文で、古来より全てのクリスチャンが、この主の祈りによって祈祷を捧げてきました。この祈りの中には、それほどまでに大切な、信仰の根幹となる教えが内包されています。
この祈りは、「神様への賛美」、「日ごとの糧の求める祈り」、「罪の赦しを求める祈り」、「誘惑から逃れるための祈り」という、心と体の両方の必要をシンプルに求める内容で無駄なく構成されています。祈るのに長い時間を必要としない、素晴らしい祈祷文です。しかし、この短くシンプルな祈りの中にこそ、本当に大切な教えが込められています。私たちは、この主の祈りを通して、「神様の前に、私たちは何も持っていないこと」を学ばなければなりません。
例えば、「私たちに、日ごとの糧を今日も与えて下さい」と祈りますが、実際に今日の食事にすら困る人は希です。だから、私たちは大抵、「既に食料は持っている」と思いながら、この祈りを行うのです。しかしその食料は、本当にいつでも自由に食べられて当たり前のものでしょうか(伝道者の書5章10-12節、ルカ12章20-21節)。もし神様がそれをお許しにならなければ、私たちは病気で点滴の生活を送ったり、火事で全てを失ったり、時には死んだりもして、食料を食べる機会をあっという間に失ってしまいます。私たちは、多くを所有しているようにみえて、本質的には何も持ちあわせていないのです。だからこそ謙遜に、手にした物で楽しむことを、今日も神様が許し続けて下さるように、真剣に祈り求める必要があるのです。
また、私たちは罪を犯して生き続けていますから、その赦しを神様に求めて祈ります。神様は、一方的な愛と善意によって、私たちの罪の罰の身代わりに、独り子であるイエス様を十字架にかけ、私たちが、罪を認め、悔い改めて、御子を信じるならば、全ての罪が赦されるようにして下さいました。この時、神様に赦して頂いた罪の負債は、計り知れません。それに比べ、他の人が私たちに持つ「負債」のなんと軽いことでしょうか。少なくとも神様の前で、それを誇ることは出来ないはずです。だから私たちは、他の人の自分への負債を赦し、祈るのです。
心の強さについてもそうです。私たちは、人生の中で出会う誘惑を、自らの精神力で跳ね返せると信じています。だから、失敗した時には、誘惑に抗えなかった自分を責めてしまいます。しかし、イエス様は、「誘惑に抗えるように祈れ」とは教えられませんでした。むしろ、「負けてしまうから出会わないように祈れ」と教え、それどころか、「誘惑に負けることを前提に、陥った後に、悪から救い出して下さるように祈れ」とまで教えられました。私たちは、それほどまでに弱い存在です。そのような最低限の強さすらも、実は持ち合わせてはいないのです。
この様に、私たちは、主の祈りを通して、自らの手の内が空であることを悟ります。しかし、神様は、私たちのことを愛し、その手の中に、「罪の赦し」や「新しい身体」、「永遠の命」、そして「神の子としての身分」という素晴らしい贈り物を与えて下さいます。そして、神様と共に生きる、活き活きとした新しい人生の中へと、招いて下さるのです。この世界をお創りになられた神様は、私たちの心と体に必要なものを、いつも与えてくださいます。だから、自身の手に何もない事を恐れず、神様と共に歩む新しい人生へ、踏み出そうではありませんか。
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