『いと高き方の子』
聖書箇所:ルカの福音書1章26〜38節
中心聖句:『その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。』(ルカの福音書1章32節)
2024年12月1(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
アドベントに入りました。アドベントは、神の独り子であるイエス様が、地上へやってきて下さったことに心を向ける大切な期間です。多くの人はこれについて、今更何度も聞きなれた説明だと思うかもしれません。しかし、イエス様が世に来られた事態の深刻さと、自身の罪について良く理解しない限り、私たちは日々求める聖めの恵みに決して預かることが出来ません。「安らかだと思っている者はわざわいを侮る」とはっきり書かれているからです(ヨブ12章5-6節)。イエス様の来臨と自身の罪の本質について、良く考えたことがあるでしょうか。
今日の箇所で天使ガブリエルは、イエス様がいと高き方の子と「呼ばれる」と未来形で表現しました。何故かと言えば、生まれながらにして「いと高き方の子」であるはずの方が、そう呼ばれるには到底ふさわしくない姿で、即ち神としての力を完全に失い、ただの人間として、しかも馬小屋というみすぼらしい場所でこれからお生まれになられるからです。この方は、時が来るまでは決して「いと高き方の子」と呼ばれないだろうとガブリエルは告知しました。
更にこの方は、ユダヤの王としての王権が与えられるとも告知されました。しかしそれは、全世界の王権ではなく、ユダヤの王としての王権です。これは、ヨシュア記でヨシュアが戦ったように、これからイエス様も、父なる神様の定められた全ての敵を討ち滅ぼし、全ての王権を手にするまで戦うことを意味しています。何故ならイエス様は、その名前の意味する「主は救い」を実現する為に、私たちの罪と、全ての死を打ち滅ぼさなければならなかったからです。イエス様が、既に十字架によって罪に勝利されたことを私たちは知っています。しかし、その一部の勝利の為にすら、イエス様は十字架の苦しみと死、三日目の復活を経なければなりませんでした。そして、今もなお、イエス様は私たちの「死」に打ち勝つために、戦い続けておられます。その全ては、愛する私たちが、罪と死に勝利して救われる為に行われているのです。
私たちが注目すべきところは、これに勝利する為に、いと高き方の子がここまでしなければならなかったという部分です。イエス様が十字架によって戦われた本当の罪は、たまたま犯す失敗のような単純なものではありません。イエス様は、こう言われました。兄弟に対して怒り、罵る者は、「殺してはならない」という十戒の禁を破るよりも深刻な裁きを受ける(マタイ5章21-22節)。またこうも言われました。右目や右手があなたをつまずかせるなら、それを切り離してでも神の国に入れ。しかし、私たちがこれについて考える時、一つの事に気がつきます。切り離さなければならない罪を犯させる部分こそが、自身にとって本質的で、あまりにも致命的な部分であるのだということです。私たちに罪を犯させる病巣は、切り離したら自分が自分で無くなってしまうアイデンティティにまで食い込んでいます。頭や心、身体の大部分を切り捨て、小指一本が残れば、それは私たちでしょうか。そうではないはずです。私たちが自身の罪と真剣に向き合う時、最終的には自身自身そのものが罪であることに気づかされるのです。
それはつまり、自分の努力では決して誰も救われないことを意味します。これに気が付き、本当の意味で御子がこの世に来られたことの重要性を理解する時、私たちは初めて真に悔い改めて謙遜になり、聖めを求めることが出来るようになるのです。この深刻な問題を解決する為に、イエス様も全てを捨ててこの世に生まれ、十字架に掛かって罪を赦し、私たちの中枢の罪の性質を聖める為に、助け主である聖霊様を遣わして下さいました。私たちが自分の力では決して克服できない罪の性質すらも、イエス様と聖霊によれば全て聖められるのです。イエス様は、私たちを愛してこの世に来てくださいました。私たちはどう応答できるでしょうか。
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