『全ての名にまさる名』
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5〜11節
中心聖句:『それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。』(ピリピ人への手紙2章9節) 2024年12月8(日) 第二アドベント主日礼拝説教要旨
今年のアドベントでは、イエス様の来臨が私たちに何をもたらしたのかについてお話したいと願っています。何故なら私たちが、地上の生活において、日々あらゆることに苦闘しているからです。その苦闘の殆どは、御言葉に従う為に起こります。従わないなら生活は平穏です。戦いそのものが起こらないからです。しかし、もし私たちが、従う為に戦いたいと願うのなら、イエス様の示された従順と、それ故受けた勝利について、良く理解する必要があります。
私たちは、神様の御言葉に従う姿が正しく、それが理想であると言うことを認めています。これに異論がある人は、クリスチャンの中にはいないはずです。しかし、実際に御言葉を自分の生活の中に適用するように命じられ、求められると、多くのクリスチャンが戦いから脱落してしまいます。多くの人が、その戦いの難しさ故に「御言葉の達成は努力目標であり、取り組むだけで上出来で、達成できずとも仕方ない」と諦めるからです。本当にそうなのでしょうか。
事実、御言葉を実践する戦いは、敗北も仕方ないと思える程に困難です。取り組む度に、私たちは自身の罪深い特性を垣間見て、その勝利がいかに難しいかを痛感させられるからです。自身の欲望、想い、考え、性格、あらゆるものが私たちの勝利をさまたげます。そもそも、何故、折々でその御言葉について決断し、今達成する必要があるのかすらもわからないと思います。実際多くの人は、「御言葉は、長年かけて達成できれば問題ない」と考えているはずです。
では、イエス様はどうだったのでしょうか。イエス様は子なる神としての力を全て捨て、人となってこの世に来られたのですが、その時に子なる神である力と立場にしがみ付いて、誕生を先延ばしするようなことはなさいませんでした。人となった後も、全ての御言葉に対して即座に応答し、十字架の死に至るまで父なる神様の命令に従われました。決して、「そのうちやります」と先延ばしにはされなかったのです。何故でしょうか。全ては、「わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る(エゼキエル37章13節)」と言う、父なる神様の御言葉を成就する為に、その時々ですぐに決断する必要があったからです。イエス様は、聖書でご自分について予告された御言葉を、全て成就される必要がありました。その為には、決して決断の遅れが許されなかったのです。
イエス様は、御言葉に対し常に従順であって、先送りせず、その場で御言葉の実行を決断する大切さを良くご存じでした。イエス様の誕生と十字架は、罪の赦しのしるしであると同時に、キリストとしての苦闘のしるしでもあるのです。この戦いに勝利されたが故に、イエス様は勝ち取るべきものを全て勝ち取られ、全ての名に勝る名を神様から受けられたのでした。
私たちもまた、キリストに倣うものとして、同じことを求められています。私たちは、御言葉に心の本質までも従順であることによって、想像もつかない光栄な役割を、父なる神様から受けて果たすことができます。イエス様自身も、父なる神様の計画の全貌を知らされてはいないにも関わらず、全ての御言葉に従順であることを決断されたが故に、十字架の勝利を与えられました。私たちもイエス様に倣いたいと望むのですから、尚の事、イエス様のように御言葉に従う決断を求められるのです。御言葉への従順は、努力目標ではなく私たちの使命です。それ故、私たちが御言葉に従うことは神様の御心なのです。これを良く理解し、聖めを求めて熱心に祈る時、聖霊様は、私たちを必要な全ての御言葉に必ず従わせてくださいます。その時、私たちは徒労に思えるような敗北ではなく、イエス様の弟子としてその名が高く上げられる大きな勝利を得られるのです。今日、貴方に示されている御言葉は、一体何でしょうか。
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