『決して小さくはない』
聖書箇所:マタイの福音書2章1〜12節、ミカ書5章1〜2節
中心聖句:『ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」』(ミカ書5章2節) 2024年12月15(日) 第三アドベント主日伝道礼拝説教要旨
三人の博士は、ユダヤの王の出生地をヘロデ大王に対し質問しました。ユダヤの王とは、救い主(キリスト)のことです。これを受けてヘロデ大王は、祭司長や律法学者たちからミカ書5章2節の預言のことを聞き、その場所がベツレヘムであることを突き止めました。ミカ書は、イスラエル王国の滅びと救い主の誕生を予告して書かれた預言書です。これが記された当時、イスラエルはアッシリアによって滅ぼされる直前でありました。イスラエルの王国が不正と偶像礼拝に浸かりきってもまだ満足せず、エリヤやイザヤといった預言者たちの言葉を無視し、更に罪に溺れた生活を送り、これを省みようとしなかったからです。その頑なさの故に、神様はイスラエルに下す裁きを確実なものとし、民にも責任を負わせることにされたのです。
私たちも、イスラエルに負けず劣らず不正な時代を生きています。今までの歴史の中でも、その不正は類を見ない程です。誰もが既にある秩序を嘲り、他の人を騙して罠に陥れようと歩き回っています。世界中で理不尽な政治や戦争が行われ、皆が可笑しいと思っていることですら当たり前のようにまかり通ってしまう今日この頃です(ミカ7章1〜6節)。人間の一人びとりを見ても、罪の中に沈む毎日を送り続けています。欲情に駆られ、激情に駆られ、怒りに駆られ、金銭に目がくらみ、形こそ違えど全ての人に急所が存在し、何らかの罪を犯す生活に依存し続け、しかも、その罪の衝動には際限もありません。どれだけ罪を犯して自分を満足させようとしても、穴の開いた器のように私たちは満足することが出来ません。それこそが、自身の罪に向き合おうとしない私たちに対しての神様からのしるしであると、聖書は宣言しているのです。私たちが「ありのままの自分らしく」罪に身を浸す生活に甘んじ続ける限り、それによってますます渇望が強くなって更に罪を犯し、イスラエル北王国のように、裁きの日に何も言い訳することが出来ない程に、罪に塗れたみじめな姿になり果ててしまうのです。
そのような、滅び去ることが確定してしまった存在に対して、神様は何を思われるのでしょうか。ベツレヘムは、滅びに定められたイスラエル王国の中でも取るに足らない小さな町でした。そのようなベツレヘムに対して神様は、捕囚の裁きを受けた後に救い主が生まれるという、希望の預言を与えられました。例え、罪の中に沈み、滅びに定められてしまったとしても、神様は自らの手でお創りになられた私たちのことを愛し続けて下さるのです。罪に沈んだ自分の姿の惨めさ故に、私たちがどれほど自身を貶めて「取るに足らない存在である」と評価しても、父なる神様は尚、イエス様を遣わして下さって、「あなたは決して小さくはない」「わたしの目には高価で尊い」という言葉を、私たちにかけ続けて下さるのです(イザヤ43章4節)。
ミカ書も、実のところは滅びが定まったイスラエルに対する、父なる神様からの励ましの言葉でした。私たちは、心根までも罪に汚れ切ってしまった一人びとりです。しかし、それでも尚、自身の罪とその心根に向き合い、これを認めて悔い改め、イエス様を信じて洗礼を受ける決心を持つことができるのならば、父なる神様はすぐにでも、この魔術師である三人の博士を招いたように、私たちのことを招いて下さいます。そして、心の内にイエス様と聖霊様を与えて、私たちを罪の生活の中から必ず救い出し、全く新しい人生を送らせて下さるのです。三人の博士たちは、救い主の元に導かれたその時、この上もなく喜んで、イエス様をひれ伏して礼拝しました。最早、彼らには占いも魔術も必要ありませんでした。イエス様によって、心が満たされたからです。私たちもイエス様を心にお迎えして、喜びに満ちた生活を送りましょう。
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