『前を向いて生きる』
聖書箇所:エゼキエル書16章59〜63節
中心聖句:『こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──【神】である主のことば。』(エゼキエル書16章63節)
2025年1月5(日) 新年聖餐礼拝説教要旨
新年が始まりました。今年は良い年になればと思いつつ、その一方で色々と大変なことも起こるのだろうなという予感もあります。いつだって人生はトラブルの連続です。世間の人々から見れば、特に私たちクリスチャンなどは生き辛い人生を歩んでいるように見えることでしょう。当のクリスチャンである私たちですら、そのように感じている人も少なくないのではないでしょうか。しかし、私たちは決して生き辛い人生を歩んでいる訳ではありません。私たちの生きる道行きが素晴らしいことを、まず私たち自身がしっかりと理解したいところです。
今日の聖書箇所で神様は、バビロン捕囚を受けたイスラエルの民に、預言者エゼキエルを通して祖国再生の希望を語られました。イスラエルの民は、ダビデ王から始まり、ソロモンの時代の背きを経て、どんどん放蕩にふけって堕落の一途をたどりました。神様との契約を守らず、偶像礼拝に走り続けたのです。そのような民に対し、神様は、まず北半分の王国をアッシリア捕囚によって滅ぼされました。それを見ても、南半分の王国は悔い改めるどころか余計に放蕩に耽り、その行いは酷くなり続けました。結果バビロン捕囚によって南半分も滅ぼされることになったのです。北半分が滅んだ後、外国人が集まってできたサマリア地域や、元々外国人の土地であるソドム地域も、バビロンによって同じく捕囚されました。彼らが捕囚されるのを見て、南の王国の人々は「清くない民が滅ぶのは当然だ」と嘲笑いましたが、実はその二つの地域よりも更に酷かったのが南の王国なのです。自身は蚊帳の外だと思っていた彼らは捕囚に遭い、自身たちの行いがいかに恥ずべきものであったのか思い知らされたのであります。
私たちは、普段は「何も問題が無い」と思って過ごしていても、ある日、突然自身の過去の失敗を突き付けられることがあります。「若気の至り」という言葉もありますが、十年ほど経ってから自身の過去の行動について指摘され、突然恥じ入るような思いをさせられることもしばしばです。その失敗が致命的で取り返しのつかないようなものであったりすると、私たちはその失敗を、以降ずっと引きずりながら生きていくことになります。後悔も失敗もせずに人生を生きることは難しく、積み重なった恥や失敗が私たちの人生を縛ります。失敗を恐れて何もしなかったことすらも後悔につながるのですから、私たちの生きる道のいかに生き辛いことでしょうか。「捕囚から解放された時、同じく解放されたサマリアやソドムの人々の行動を見て、自分たちの以前の姿を思い起こしあなた方は恥じ入ることになる」と、神様は捕囚の民に予告されました。過去のことを忘れようとしても、事あるごとに恥や失敗は私たちの背中を追いかけてきます。まず私たちが、自身の失敗を赦せず忘れられないので、他の人の失敗も赦すことが出来ず苛立ちが募ります。自分も他人も赦せない人生は、とても辛いものです。
神様は、その辛い道行きから私たちを解放して下さると、捕囚された人々に、そして現代の私たちに宣言してくださいました。救い主イエス様の十字架の贖いによって私たちの罪を赦し、過去の全ての失敗を、まずご自身が忘れてくださると約束されたのです(イザヤ38:17、43:25〜26、詩103:12、エレミヤ31:34、ミカ7:19)。過去の失敗を背負いきれない私たちに、神様は「前を向いて生きるように」と呼びかけてくださいます。このように私たちの罪を裁く立場にある神様が「赦す」と言ってくださるので、私たち自身もまた、過去に縛られず、全ての失敗を潔く認めた上で、自分を赦すことが出来るようになるのです。自分を受け入れ赦せるようになった時、私たちは自身に負い目のある他の人を赦し、とりなせるようになります。私たちの道は、そのように生き易く、前を向いて歩める赦しの道なのです。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)