『見過ごされる背き』
聖書箇所:ミカ書7章1〜20節
中心聖句:『あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。』(ミカ書7章18節)
2025年1月19(日) 主日伝道礼拝説教要旨
先日から本日にかけて、大学入試の共通試験が行われています。受験生にとっては、一年の集大成の時期です。実力を如何なく発揮する人も居れば、勉強が間に合わず悔いが残る人もいるかもしれません。受験に関わらず、私たちは人生の節目を迎えるたびに、自分が歩んできた道のりの是非を問われます。その時、多くの人は自身の歩んできた道について悔んだり、疑問を持ってしまったりするのではないでしょうか。努力の結果を収穫として得られる人は少なく、得られたとしても、その収穫が長続きすることはありません。努力し、労力を費やし、追い求めたとしても、本当の意味で幸福な状態に到達できないのは、一体何故なのでしょうか。
私たちは、この地上の中で何か確かなものを得る為に人生を過ごしています。しかし、世の中の移り変わりは激しく、私たちが確かな何かを得られることはめったに在りません。追い求めている内に、目標が陳腐化してしまうことなど日常茶飯事ですし、せっかく造り上げたものがあっという間に無価値になったり、成果を横から奪われたりすることだって当たり前に起こります。今日の箇所で、預言者のミカはその有様を、収穫前に実りを盗まれてしまったブドウ園のようだと表現し、嘆きました。努力の果てにようやく何かを手に入れても、それは自分が求めていたものではなかった、などという経験をした人は決して少なくはないはずです。努力の結果が自分の本当の幸福に結びつかないことは、とても辛いことではないでしょうか。
本来なら、私たちはそのような苦しみを味わって過ごさなくとも良いはずでした。何故なら、私たちは天の父なる神様によって創造された被造物だからです。天の父なる神様は、私たちを愛するが故に、各々に最善の道のりを整え、共に居て導いて下さる方であります。更にこの方は、私たちが積み重ねた全ての努力をご覧になり、それを用いて良い御業を起こしてくださる方でもあります。だから、私たちの人生には、本来無駄なことなど何もないはずなのです。
しかし、殆どの人は、この方から遠く離れ、その存在すら知らずに人生を過ごしています。それは、私たちの心の内に罪があるので、この方に近づくことが出来ないからです。私たちは、自分の心の中の自分勝手な思いによって、父なる神様を無視し、自分の人生を自分だけの所有物であるかのように扱い、浪費してきました。そのような生き方は、創造主である神様からの怒りを受けるには十分な過失であり、そのような罪を生まれてから一度でも犯した人は、「あなたを見張る者の日、あなたの刑罰の日」(4節)にその責を負って滅びなければならないと、聖書ははっきり告げているのです(マラキ書4章1節、黙示録20章12~14節)。しかし、そのような罪を一切犯さず、生涯正しく生きることが出来る人などこの世には存在しません。だからこそ父なる神様は、私たちに罰を下さず、むしろ赦して恵みを与える為に、大切な独り子であるイエス様を、私たちの罪の罰の身代わりとして、十字架の上で死なせて下さったのです。
私たちは、自分一人では決して幸福な状態に到達することが出来ません。何故なら、私たちは神様と共に生きる為に創造されているからです。私たちがこの方に目を向け、共に生きると決断しない限り、人生を彩る全ての物は、私たちに対し幸福をもたらしません。しかし、私たちが、自分が罪びとであると認め、悔い改めて、イエス様と十字架の贖いを信じるなら、私たちはすぐにでも全ての罪が赦され、今までの背きも無かったものとして見過ごされ、神様と共に歩む、活き活きとした人生に招かれるのです。私たちはその時、本当の意味で、幸福とは何であるのか知ることが出来ます。この招きに対し、私たちはどう応じられるでしょうか。
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