『奥義(おくぎ)の日』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章50〜58節
中心聖句:『ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。』(Tコリント人への手紙15章58節)
2025年1月26(日) 主日礼拝説教要旨
アメリカでは新しい大統領が就任し、それに付随して世界中で変革が起きようとしています。世の中で大きな出来事がある度に、私たちは慌てふためいて右に左にと揺れ動かされてしまいます。まして自身の生死がかかるような出来事となれば、私たちは到底落ち着いてはいられないでしょう。しかし、今日の箇所でパウロは、そのような状態でも揺り動かされない信仰を手に入れるよう促しています。私たちが何事にも動じない信仰を手に入れるにはどうすればよいのでしょうか。それは、奥義の日への確信を持つことであるとパウロは教えます。
これまでの箇所で、パウロは復活の日に私たちの肉体がどうなるのかについて述べてきました。そして、その締めくくりとして、終わりの日にどのようなことが起こるのかについて、その奥義(おくぎ)をコリント信徒たちに開示したのです。奥義とは、神様の啓示によって明らかにされていながらも、霊的な洞察力を持たない人々には隠されている出来事を指します。パウロは、一般の人には隠されながらも、使徒や一部の人々には見えている「終わりの日に何が起こるのか」についての奥義を、コリント教会の信徒たち、及び私たちに開示したのです。
奥義の内容はこうです。まず、イエス様が再臨される終わりの日に、天使によるラッパが吹き鳴らされます。すると、瞬きの間のような一瞬のうちに、私たちは新しい身体へと再創造されるのです。この時、生きているのか、死んで骨だけになっているのかは関係ありません。皆、同じように再創造されるのです。ですから、終わりの日に死んでいても、偶々生きていても、私たちの利益には何の差もありません。私たちはその時を境に、全く新しくされて、死とあらゆる苦役から解放されるのです。何故なら、その瞬間に死が役目を終えるからであります。
死は、本来神様に創造された良いものでありました。死は、元来は神様の定めた生きるべき時間を生き終えた人を、終わりの復活の日まで運ぶ、いわば乗り物としての役目を与えられ創造されたものです。しかし、アダムによって人間の心の内に罪の性質が入り込み、罪によって人が滅びに定められるようになると、死は滅びへの直行便となり、とげのある存在となりました。それ故、私たちは走るべき工程を全て走り終えた時に死を喜んで迎えるのではなく、それに怯え、逃げまどい、惨めに生き延びようとするようにされてしまったのです。しかし、私たちの罪の罰の身代わりとなって死んで下さったイエス様の、十字架の贖いが与えられている今、死はもはや害ではなくなったという事ができます。私たちは、十字架によって救いが保証されているので、例えいつ死という乗り物に乗り込んでも、必ず死者の復活の日、栄光の日へ送り届けられるという確証を与えられています。だから、例え今この瞬間に死ぬようなことがあったとしても、私たちは恐れず、それを平然と見据えて迎えられるようになるのです。
私たちは、生きていても、死んでいても関係なく、勝利の日へ必ず踏み込むことが出来る約束を与えられているので、世の中のあらゆることについて動揺しなくなります。死を恐れる必要もなく、また、あらゆる出来事に於いて、天の父なる神様の御手が働かれていることを、確信をもって見据えることが出来るからです。この「奥義の日」への確信を堅く握り続ける限り、私たちは動揺しませんし、自身の全ての労苦が無駄にならないことを知っていることになります。私たちの労苦は、私たちの目論見や計画によってではなく、神様の御手の業によって生かされるからです。今日死んでも、私たちは必ず勝利する約束が与えられている。この信仰を、私たちは持っているでしょうか。この奥義を、どのように受け止められるでしょうか。
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