『備えて献げる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章1〜4節
中心聖句:『あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。』(Tコリント人への手紙16章2節) 2025年2月2(日) 主日礼拝説教要旨
Tコリント人への手紙も最後の章となり、献げものについて取り扱う箇所が開かれました。献金は、私たちの感謝と献身の気持ちを表すためのものです。だから強制されたり、牧師や役員等の指導者に迫られたり、煽られたりして行うものではありません。最近は何かとマイナスなイメージが付きまといがちな「献げる」という行為ですが、献げものは私たちの信仰生活の中心的な事柄でもあります。今日は、この献げものにまつわる箇所を通して、「献げもの」という事柄について、良く考える機会を持ちたいと思います。
今日の箇所で話題になっている「聖徒たちのための献金」は、当時、様々な事情で経済的に困窮していたエルサレム教会へ送る義援献金のことです。聖地という特性上、多くの巡礼者や死を待つ困窮者を養わなくてはならないエルサレム教会は、常に資金が足りず困窮していました。そのようなエルサレム教会の窮状を、パウロは諸外国の教会に訴えました。コリント教会は、その訴えに応答し、他の教会に先んじて義援献金を贈ることを決断したのです。そういう訳で、この献金は日々の献金とは少し特性が違いますが、いくつか学べることがあります。
一つ目は、献げものは日々の収入の中から聖別し、取り分けながら積み立てて用意するものであるということです。献げものは、神様から与えられた収入の中から、その額に応じて、感謝をもって自主的に取り分ける時に、尊いものとなります。嫌々取り分けたり、余って要らなくなったものだけを献げたり、後先考えずに全ての収入を投げ入れるような献げ方は、神様が喜ばれるものではありません。神様は献げものそのものよりも献げる私たちの心の中を見られます。献げものは、私たちの感謝の気持ちを表すものであることを忘れてはなりません。
二つ目は、献げられた献金は、必ず信任されたものが取り扱わねばならないという部分です。献げものは、神様と献げる人の間の中のことであるというのはその通りなのですが、献げ終わったら、後の事については興味などない、という態度ではいけません。神様への供え物が全て適切に取り扱われているのかについて、しっかりと関心を持って注視することもまた、大切なことなのです。何故でしょうか。それは、キリストの十字架の贖いによって救われた私たち一人びとりが、聖霊を宿す神の霊の宮であり、それに使える祭司だからです。神様の御用に何の関係もない一般会衆であるなら、献げた後のことは祭司に任せて興味を失ってもよかったでしょう。しかし、私たちは、全員が神様によって取り立てられた祭司です。それ故に、献げものの行く末にまで興味を持たねばなりません。私たちは、一人びとりが万人祭司(ばんにんさいし)の中の数えられており、献げものだけでなく、奉仕や教会の運営、設備、魂の取り扱いに至るまでも、全て神様から委ねられ、預けられています(Tペテロ2章5〜9節、黙示録5章9-10節)。神様から教会を委ねられておらず、居ても居なくても良いなどという存在は、イエス様を頭とするこの神の民の群れの中には、一人たりとも存在しないのです。
神様は、私たちに教会という大切なものを委ね、キリストの身体に仕える祭司として、一人びとりを召されました。祭司の生活を満たすのは神様の役目ですから、それ故に、私たちは神様から日々の生活の糧を与えられ、あふれるばかりの恵みを注がれているのです。だから私たちは、自身が受けている恵みを、神の教会に仕える一人の祭司としてどのように用いるか考えなければなりません。だから、教会の必要についても十分に熟知し、その上で、自らの背負う重荷を、自身の収入と照らし合わせながら決断し、備え献げていくのです。私たちは、各々特別に召された神の祭司です。この事実に対し、どのように応答することができるでしょうか。
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