『足ることを知る人生』
聖書箇所:伝道者の書6章1〜12節
中心聖句:『だれが知るだろうか・・、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。』(伝道者の書6章12節) 2025年2月16(日) 主日伝道礼拝説教要旨
昨今、SNSや様々な情報サービスによって、「他の人の人生」が良く見えるようになりました。昔は他人の生活など見えませんでしたから、多少不自由でも「まぁ、こんなものだろう」と、それなりに納得して生活することができたように思います。しかし、今の時代、私たちは様々な羨ましい世界で、自分の想像もつかない生活をしている人々が見えてしまいます。嫌でも「自分は幸せなのか?」と疑問に思い、考えさせられてしまう。今は、そういう時代です。
その一方で、今日開いた聖書の箇所では、伝道者と呼ばれる人が、自身の目撃した様々な「富める人々の痛ましい人生」を紹介しています。多くの財産を持ちながらも、その財産で自分の人生を幸せにできない人や、多くの子孫に恵まれているのに、老後がむしろ不幸になっている人など、その事例も様々です。莫大な金銭には、案外使い道がありません。人間一人の欲望程度、全て満たそうとしたところで、その金額はたかが知れているからです。金銭で自分の欲望を満たすことが出来る人はまだ幸せで、多くの人は、金銭を増やすことに執心して、結局ありあまる財産を有効に使うどころか、他の人々に食いつぶされるのをただ見ているだけになると、伝道者は語ります。また、一族が大きくなって繁栄しているように見える人でも、結局本人が満たされることなく、晩節を汚して尊敬もされないような終わり方を迎える人生であるなら、その人生は最早、生まれてすぐに死んだ赤子にも劣るものであると、伝道者は語ります。伝道者自身も、仕事、お金、性、遊興の全てを追い求めてこれを得ましたが、幸せにはなれませんでした。私たちが、人生の中で「幸せ」を手に入れるには何が必要なのでしょうか。
そもそも、今の私たちは、以前の時代や、貧しい地域の人々から見れば、理想的で「幸せ」な人生を歩んでいるように見えます。雨風凌げ、暖かい寝床があり、安全で、飢えにも差別にも脅かされない生活を享受する私たちの人生は、それを追い求めてきた過去の人々にとっては、全てを手に入れた栄光の道行きに見えるはずです。「自由に学び、仕事があり、その金で差別も受けずに家族を養い暮らしていける。人生に対し他に何を求めるのだ?」と問いかける人は、現代にもきっと大勢いるはずです。しかし、それでもやはり私たちの「幸せ」には繋がりません。それでも、私たちは「幸せ」になりたいと願わずにはいられないのです。これは贅沢な願いでしょうか。空しく「良かった探し」をする以外に、人生の希望はないのでしょうか。
そのような中で伝道者は、「人生にとって何が幸せであるか、私たちに教えることの出来る存在はいるだろうか?」と静かに問いかけます。その答えは、「Yes」です。それは誰でしょうか。その方こそが、この天地を創造し、私たちをも創造された父なる神様なのです。この方は、造り主であるが故に、唯一私たちの人生の幸福と生きる意味について、私たちにはっきり教えることが出来ます。しかもこの方は、その人生が終わった先のことについてすらも、聖書の御言葉を通して教えて下さるのです。私たちの死んだ先には、罪の赦しと復活の希望があり、神様と共に歩む活き活きとした永遠の道が開かれることが、聖書にははっきり宣言されています。勿論、その道を歩むためには、私たちが今までの人生で犯してきた罪を清算せねばならないのですが、神様は、「大切な独り子を十字架にかけ、罪の罰の身代わりとして死なせ、既に清算している」と、罪の問題が解決されていることを教えてくださいます。この方だけが、影の中で過ごす空しい人生から、光の中で活き活きと過ごす、本当に幸福な人生へと、私たちを連れ出して下さるのです。自身が罪びとであることを認め、悔い改めて、キリストを信じ、この造り主と共に生きようと口に出して言い表した時、私たちは本当の意味で人生が満たされると言うことを体験します。足ることを知り、毎日を活き活きと過ごすことが出来るのです。
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