『愛の人を尊ぶ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章13〜18節
中心聖句:『彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。』(Tコリント人への手紙16章18節) 2025年3月3(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
会堂に、大きなモニターが献げられ、映像が見易くなって一ヶ月経とうとしています。私たちの教会にとって、これらの設備は喜ばしい宝物です。大きなモニターも、立派な礼拝堂も、かけがえのない宝物と言えるでしょう。しかし、それよりも更に重要で、大切な宝物が存在します。それこそが、礼拝に集う各々の魂であり、その中でとりわけ重要なのが、教会の中に居る「愛の人」なのです。このような人々は、神様の宝物であって、誰より尊ばれるべきであるとパウロは教えます。では、神様の宝物である愛の人とは、どのような人を指すのでしょうか。
パウロは、この手紙を挨拶によって結ぶ前に、コリント教会に対し、どうしても行わなければならないと考える警告を行いました。それは、これからパウロの手紙を受け取りコリントへ帰還する、三人の教会信徒たちへの扱いについてです。この人々は、ステファナ、ポルトナト、アカイコという三人のコリント信徒でありましたが、彼らが手紙を受け取ってコリント教会へ帰った後のことが危ぶまれました。何故なら、これからパウロよりコリントに送られる手紙の内容が、戒めと訓戒ばかりの「お叱りの手紙」だったからです。これを読めば、「余計な報告をしてくれた」「どうしてこのような告げ口をしたのか」と、三人が槍玉にあげられてしまうとパウロは考えました。普通ならば、叱責に対し各々が心を痛めて悔い改める応答が起こるはずなのですが、コリント信徒の思い上がった姿や態度を考えると、反省するどころか、手紙を持ち帰った三人に対し、皆が八つ当たりするだろうことは目に見えました。それ故、パウロはこの三人の働き人によって、コリント教会が救われたということを教えようとしたのです。
コリント教会が、この三人によって救われたとはどういうことでしょうか。それは、パウロの心が安らいで、コリント教会に鞭をもって出かけていく事態が回避されたからです。パウロは、この三人に報告されるまでもなく、「クロエの家の者」(1章11節)や、他の教会の人々からコリント教会の「惨状」を聞かされて知っており、既に怒っていました。そこへ、とりなす人々も居ない状態で、コリント教会からの傲慢な質問状が届けば、パウロの怒りは爆発していたことでしょう。そのようなパウロに対して、その怒りの矢面に立ち、涙ながらにこれをとりなして宥めたのがコリントへやってきた三人の働き人だったのです。コリント信徒全体が、傲慢に陥り堕落しているのではないことを、パウロはこの三人を通して知り、安らぎました。それ故、パウロはある程度でも冷静になって、理性的にコリント教会への手紙を執筆することが出来たのです。そうでなければ、手紙の内容はもっと酷いことになったはずでした。
特に、この三人の中のステファナは「アカイアの初穂」と呼ばれ、一家揃って心を砕き、伝道に身を捧げた信徒献身者でした。その働きは目立つことはありませんでしたが、他の聖徒の為、そして何より神様の為に、一家揃ってくたくたになるまで教会の奉仕に殉じたのです。このような人が「愛の人」であり、注目されるべき宝なのであると、パウロは教えました。彼らのような人こそが神様に喜ばれ、その働きへの報いによって教会全体が祝福されるからです。
もし私たちが、神様から「貴方は教会の宝だ」と喜ばれたいなら、この一家に倣って、他の聖徒の為、神様の為に身を砕いて奉仕に携わるべきです。何故なら、神様は、私たちの働きを決して軽んじることなく、献げた労を全て覚えて、喜んで受け入れて大切に扱って下さるからです。私たちは、神様によって救われ、神様の子供になりました。ならば、次は、神様の宝物になる為に、愛の人を目指すべきです。私たちの名古屋教会の中で、愛の人と呼ばれるにふさわしい人は居るでしょうか。自分こそがそう呼ばれる為に、御互い励もうではありませんか。
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